考え、言葉にし、見える形で公開することにした
宗教とは何か、ずっと考えてきた。
小学校3年の時、秋晴れの気持ちの良い日に、突然祖父が亡くなった。
祖父の息子である父にとっては青天の霹靂であったと思う。同時に、それは一家にとって一大事であった。
仕事と家庭が直結している我が家にとって、父の苦悩の始まりは、妻である母の不安と緊張の日々の始まりであり、長男である私は弟たちとともに両親の精神的な混乱の影響下に置かれた。
これは現在の30代半ばという年齢になったからこそ冷静に描写できるものであり、当時はそれどころではなかった。さらには、思春期に向かい始めるとともに、自分を持て余しはじめていた。
そのような自分が当時始めたのが、寝る前に合掌し、祖父に対して「明日もよい日であるように、皆が幸せでありますように」と祈ることだった。
布団に潜り込み、横になったまま手を合わせ、穏やかで平和な明日を祈る習慣は20代後半まで続いた。
なぜそれをはじめたのか、明確な理由は覚えていない。
今となっては、家庭全体を覆う雰囲気に対する抵抗であり、救いを求める自然発生的な習慣であったと推測するしかない。
しかし、いずれにしてもその後20年以上続け、現在もそれは続いている。
ただ、20代の終わりに、違う形式を採用することにより方法が大きく変わった。それは、創価学会という宗教団体に入会し、法華経という経典を読み上げ、ご本尊という自分自身の鏡と向き合うという方法に変えたのだ。
これは、自らの意志で変えたのだ。
祖父に20年間毎夜毎夜すがってみても、根本的に何かが変わったとは言えないと感じていたからだ。
死んだ祖父は何もしてくれはしない。霊的な存在でそばにいてくれたかもしれないが、私の人生の課題を解決してくれるわけではない。
また恐らく、言い方を変えるのであれば、解決してくれたことは一度もない。解決した主体は私であり、目に見えない、いるか分からない祖父であったことはただの一度もなかった。
そう悟り始めていたとき、今の妻と出会い、彼女は私を折伏し、提案された信仰のあり方に魅力を感じたのだ。
それがおよそ8年程前のことである。
宗教とは何か、ずっと考えてきたと言ったが、この問いが大きく膨らんだのは入会後のことである。
その間に出会った人々、遭遇した出来事、考えたことを、記していくことにする。