あなたへの声明

幸福になるために考えたこと、感じたことを、ここに発信する

「なぜ信じるのだろうか」から始める問い

宗教とは何だろうか?と考えていくなかで、なかなか納得のいく回答は見つけられなかった。

宗教は「組織」であり「団体」であり、「コミュニティ」でもあり「文化」でもあるとまず考えたが、私が欲しい答えはそういう自明で形式的なものではなかった。

 

宗教とは何だろうか。

なぜ、私は祈るのだろうか。

なぜ、私は信じるのだろうか。

 

改めて私自身の問いを逆に辿ると、なぜ信じるのだろうかという問いかけが、宗教の前に立ち上がっていた。

信じるとは「信仰」と言い換えられる。例えば、開祖が書き記した指針は正しいと信じること、唱えれば必ずご本尊は応えてくれると信じることを指す。根拠が示されたわけでもないものを、無条件に信じて仰ぐ「信仰」が、集団としての宗教とともに個々の行為として存在している。

 

「宗教とは何だろうか?」という問いの裏に隠れている、「なぜ私は信じるのだろうか?」という問いを見つけるまでに、私の場合は少し時間を要してしまった。

 

宗教とは何だろうか

あなたは、宗教を「こうである」と定義できるだろうか。

あなたは、宗教が「誰のために」「何のために」あるのか説明できるだろうか。

 

では、

あなたは、なぜそれを信仰をしているのだろうか。

もしくは、

あなたは、なぜ何も信仰を持たないのだろうか。

 

あなたは、本当にそれを信仰しているのだろうか。

あなたは、本当に何も信仰を持っていないのだろうか。

 

私は、あなたへのこの質問を、まず自分に問うてみた。

私は、私なりの答えを持つにいたるのに、それなりの歳月がかかった。

 

あなたは答えられただろうか。

誰かに言われたこと、何かに指針のように書かれていた言葉、ではなく、

あなたの、心の深い深い内面から、命の奥底から、引きずり出した答えだろうか。

 

あなたの全人格に誓って、

あなたは答えられただろうか。

 

挑発的と感じられるかもしれない。

どうだろうかと、素朴に自問されるかもしれない。

 

この問いかけは、信仰のあり方を転換するにあたっての、私の根源から発せられた素朴な疑問であった。

そして、同時に自己変革への希求による、私自身への挑発であった、と今になって言える。

 

考え、言葉にし、見える形で公開することにした

宗教とは何か、ずっと考えてきた。

小学校3年の時、秋晴れの気持ちの良い日に、突然祖父が亡くなった。

祖父の息子である父にとっては青天の霹靂であったと思う。同時に、それは一家にとって一大事であった。

仕事と家庭が直結している我が家にとって、父の苦悩の始まりは、妻である母の不安と緊張の日々の始まりであり、長男である私は弟たちとともに両親の精神的な混乱の影響下に置かれた。

これは現在の30代半ばという年齢になったからこそ冷静に描写できるものであり、当時はそれどころではなかった。さらには、思春期に向かい始めるとともに、自分を持て余しはじめていた。

そのような自分が当時始めたのが、寝る前に合掌し、祖父に対して「明日もよい日であるように、皆が幸せでありますように」と祈ることだった。

布団に潜り込み、横になったまま手を合わせ、穏やかで平和な明日を祈る習慣は20代後半まで続いた。

なぜそれをはじめたのか、明確な理由は覚えていない。

今となっては、家庭全体を覆う雰囲気に対する抵抗であり、救いを求める自然発生的な習慣であったと推測するしかない。

しかし、いずれにしてもその後20年以上続け、現在もそれは続いている。

ただ、20代の終わりに、違う形式を採用することにより方法が大きく変わった。それは、創価学会という宗教団体に入会し、法華経という経典を読み上げ、ご本尊という自分自身の鏡と向き合うという方法に変えたのだ。

これは、自らの意志で変えたのだ。

祖父に20年間毎夜毎夜すがってみても、根本的に何かが変わったとは言えないと感じていたからだ。

死んだ祖父は何もしてくれはしない。霊的な存在でそばにいてくれたかもしれないが、私の人生の課題を解決してくれるわけではない。

また恐らく、言い方を変えるのであれば、解決してくれたことは一度もない。解決した主体は私であり、目に見えない、いるか分からない祖父であったことはただの一度もなかった。

そう悟り始めていたとき、今の妻と出会い、彼女は私を折伏し、提案された信仰のあり方に魅力を感じたのだ。

それがおよそ8年程前のことである。

宗教とは何か、ずっと考えてきたと言ったが、この問いが大きく膨らんだのは入会後のことである。

その間に出会った人々、遭遇した出来事、考えたことを、記していくことにする。